正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十六

 岩波文庫108ページ「しかあれども、「一切衆生無仏性」のみ仏道に長(ちょう)なり。塩官有仏性の道(どう)、たとひ古仏とともに一隻(いっしゃく)の手いだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁(いちじょうしゅじょうりょうにんよ)なるべし」
 (有無について考えるのが当然だけれども)「一切衆生無仏性」のみが、仏道として優れている。塩官斉安禅師の「一切衆生有仏性」という言葉は、古仏(ここでは釈尊:水野氏脚注)と一緒に手を差し伸べているように見えるけれど、一本の杖(一条拄杖)を二人で担いでいることなのだ。
 道元禅師は斉安禅師を否定されている訳ではない。しかし、斉安禅師は釈尊の教えを理解しているものの、自分自身で、さらにその教えを展開してはいない、と道元禅師はおっしゃっているのだと思う。
 仏教は自分自身がどう行動するかということ。澤木氏の「自分が自分で自分を自分する」なのだ。常に坐禅し、常に仏教、仏道とはなにかを体全体で求めなければいけないと思っている。
 仏向上事という言葉がある。よく「悟りを開いた」とか言うが、たとえ仏というレベルに行き着いたとしても、常に坐禅し、大宇宙の真理を求めていないのであれば、その人は仏ではなくなる。
 釈尊の有仏性を理解し支持するのに留まってはいけない。
 今Withコロナとかアフターコロナとか言って仕事や生活のあり方が変わると大きな声で言っているけれど、世の中、常に変化している、前に出てきた無常だ。これまでも、未曾有の変化の時代が来た、なんて何回言われてきただろう。
 現実をよく見て、一生懸命対応する。これまでもこれからも変わらない真実だ。
 真剣に考えるのは当然だが、騒ぎすぎるのもいかがなものかとは思う。