正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十九

 岩波文庫109ページ「さらに摸サク(手偏に索、ぼさく)すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔儻(まとう)なるべし。魔子(まし)一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり」
 さらに色々考えていかなければいけない。一切衆生=仏性なのだから、わざわざ一切衆生が仏性であるなどと言う必要があるか、仏性が有るなどと言う必要があるか。もし、仏性が有るなどと言うのであれば、それは間違ったことを言う魔物のようなものである。間違った考え方を持って来て、それを一切衆生に覆い被せようというようなことである。仏性、衆生はそれぞれ絶対的な事実であって、有るとか、無いとか、頭の中で考える必要はない。
 とにかく頭の中の観念論、言葉の遊び(言い過ぎ?)が人間は大好きですよね。頭の中だけで考えていれば、それはそれは美しい理想的な、正義の世界が出来上がる。頭の中だけで納まっていればいいけど、地位とか、見栄とか、利得とかに絡め捕られ、現実を無視して、「力」を背景にそれを推し進めようとする。「力」は経済力(カネ)、であったり軍事力であったりする。今の世の中、この2つの「力」で動いているように見える。
 人類としてどこに向かおうとしているのか、さっぱりわからない中で、「力」を振るっていれば、ろくなことにはならないんじゃないですかねぇ。
 まあ、西嶋氏もお書きになっているように、歴史を見れば戦争に勝った方が正義で、負けた方はそれに従うということでやってきた。その考え方は変わることなく、人類の根底にあると思う。
 それでは良くないと思うけど、変えようとすれば長い長い時間が必要だろうなあ。大体「自分は正しい」と固く信じている権力者が耳を傾けるとはまったく思えない。
 坐禅してもらうしかないけど、その必要性なんてまさに夢にも思わないに決まっている。
 このままじゃまずい、と思うようになるまでは仕方ないのかなぁ。
 最悪にならない智恵は持っていると信じるしかないか・・・