正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十

 岩波文庫109ページ「衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨(そうし)なり。張公喫酒李公酔(ちょうこうきしゅりこうすい)といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず」
 衆生はもともと仏性をそなえているなどと、衆生と仏性を分ける必要はない。仏性を手に入れようと求めてはじめて仏性が備わるというものではない(衆生と仏性は分かれたものではないのだから)。張さん(人名)がお酒を飲んだら、公さんが酔っぱらうようなとんちんかんなことを言ってはいけない。もし万一(おのづから)にも仏性があるなどと抽象的な言葉を使って表現するなら、それは衆生ではない。同じく衆生であるなどと表現するなら、それは仏性ではない。
 衆生=仏性を頭の中の抽象的な言葉であれこれいじり回して、あれこれ、分かったようなことを言う必要はないということだと思っている。これは坐禅していると身体全体で感じる。大宇宙の中ではそうなのだ。
 澤木氏か西嶋氏か忘れてしまったが、「正法眼蔵坐禅の中身を書いたものだ」と言っておられた。坐禅せずに正法眼蔵はわからないと本当に思う。
 言葉、文字だけでは無理。しかし、言葉、文字で伝えなければ人々に伝えられない、後生に残せない、そこで道元禅師は苦心惨憺されて正法眼蔵を書かれたのだと思っている。
 考えることは大事に決まっている。しかし、正しく考えるには坐禅が不可欠だ。ただただ頭の中なかだけでひねくり回していると苦しいだけ。また、現実離れした考えを正しいと信じ込んで、憑依されたようにおかしなことをしてしまう。けっこういますよね、そういう人。
 なんだか、ある芸人が不倫したとかなんだとか騒いでいる。芸人が品行方正なんてことはないとは思うけど、まあ、よろしくないでしょうね。
 仏教に十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、五戒というものがある。いわゆる戒律で、後者は在家信者が守るべきものらしい。その五戒の中に不邪婬戒(ふじゃいんかい)がある。要は、不必要な性欲は堪えなさい、ということだと考えている。
 性欲を悪だとして禁じてしまったら、生物としての人類は滅亡してしまう。それでは困るから性欲を悪とはしない。しかし、生物として存続するため以上の不必要な性欲は駄目だよ、ということ。そんなことしている暇があれば人間としてやらねばならぬことがあるだろう、ということ。
 その芸人はグルメでも有名だったらしいけど、生きるために必要な食物以上に求め続ける必要はない。
 おかしなことをしないためには、毎度のことながら坐禅するしかない。