正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十一

 岩波文庫109、110ページ「このゆゑに百丈(ひゃくじょう、百丈懐海(ひゃくじょうえかい、馬祖道一の法を継いだ))いはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧。説衆生無仏性、亦謗仏法僧(衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗(ほう)ず。衆生に仏性無しと説くもまた仏法僧を謗ずるなり)」しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗(ほう)となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず」
 このため、百丈懐海禅師は衆生に仏性が有ると言っても無いと言っても、仏法僧(ぶっぽうそう、仏教において尊いとされているもの。三宝)を謗る、傷つけることになるとおっしゃった。有ると言っても無いと言っても謗ることになる。しかし、謗ることになるとしても、仏性について言葉にして考えなければならない。
 仏性は大宇宙の真実だから、有るとか無いとか言葉でいじくり回しているだけなら、仏教・仏道をつまらない、矮小なものにしてしまう。だけど、仏教・仏道を勉強しようとするならば言葉で考えねばならない。
 大宇宙の真理はどう言ってみても言い表せない。けれど言葉にしなければ伝えられない。
 現実の世界でも、当然のことを理解してもらえないというのは、かなり多いと思っている。何でわからないんだろう?とイライラすることは、相当ある。
 相手は相手の立場、地位とか見栄とか利得とか色々あって、当然のことがわからなくなっている、いや、わかりたくないという状態なのだろう。
 理不尽なことでも偉い人がでかい声で威張って言うと、通っちゃったりする。
 組織、社会、人類にとって不幸なことだけど、今の状態では希望は持てないなあと感じている。
 坐禅しかないと思うけど、坐禅も広がりそうもないし。
 スティーブ・ジョブス坐禅に巡り合って成功したとかいう記事をちらっと見た。ちゃんと理解していないので、なんか言うと怒られちゃうかもしれないが、ジョブスを真似して成功するために坐禅するのなら、それは坐禅ではない、仏教ではないと思う。利得を求めるのでは話にならないんじゃないですかねぇ。瞑想とかマインドフルネスとかいう言葉があった。それで救われる人たちがいるならそれはそれで結構なことだ。
 けれど道元禅師のおっしゃっていることと同じなのだろうか、という疑問がある。道元禅師は瞑想ということを書いておられないし、マインドフルネスは坐禅の姿勢をとらなくてよいらしい。それでは、道元禅師の教えとは違うものではないのかな、と思う。
 私は道元禅師原理主義者なので、道元禅師の正法眼蔵に従って生きていきます。