正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十四

 岩波文庫110ページ「また、大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得(どうて)すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢也未見在(むやみけんざい 夢にもまた未だ見ざること在る)なり。試挙看(しこかん 試みに挙げてみよ)
 また大潙(潙山霊祐禅師)に向かって言ってみたい。一切衆生無仏性と言うことはできても、一切仏性無衆生とは言っていない、一切仏性無仏性とも言っていない、ましてや一切諸仏無仏性とは夢にもみたことがないだろう。試みに言ってみよ。
 道元禅師は、このように言葉を入れ替えるようにして、これでもかこれでもかと追求される。言葉で表現することは重要だが、一つの言葉に捕らわれてはいけない。大宇宙の真理は言葉では言い表せないけれど、必死になんとか伝えようとしているのだ、ということを忘れてはいけない、ということもあるのではないか、と思う。
 仏性も衆生も諸仏も大宇宙の一部であり、言葉をあてはめる必要はない、ということではないかと思う。
 どんなに耳障りのよい言葉でも、それだけで、どうにかなるものではない、と思っている。
 もちろん、文学や詩や歌などに力はあると思う。私は、それらが、大宇宙の真理とどこかで繋がったときに、人々に感動を呼ぶのだと思っている。
 けれど、結局のところ、現実の中で瞬間瞬間どう行動するかが、すべて。言葉はそれを助けることはあるだろう。けど、言葉が主体ではない。問題は行動だ。
 最近、色々疑問だらけだ。どうしたものか、個人的にはかなり苦しいところです。とにかく、今の瞬間を坐禅しながら凌いでいくしかない。今は決断するときではない。坐禅した心身がそう教えてくれている。
 ちょっとだけ付け加えると、仏教は大宇宙の真理を対象としているので、言ったり、やったりすることは「当たり前のこと」「普通のこと」になる。突飛なこと、派手に目立つことを言ったり、やったりするのは仏教・仏道ではないと考えている。
 当たり前のこと、普通のことを言ったり、やったりしているのに、社会から奇異な目で見られるのならば、それは社会がおかしいのだ。