正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十七

 岩波文庫111、112ページ「生(しょう)を使得(すて)するに生にとゞめられず。死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖(くふ)することなかれ」
 生きているという現実の中にいて「生」に執着して身動きできないということはない。死という現実に対して「死」という概念に邪魔されることもない。訳も分からずただただ生に執着してはいけない、死というものは避けられないのだから、どうしても嫌だと死を恐れてはいけない。
 何回か書いたけど、生も一時の位なり、死も一時の位なり、だ。
 大宇宙と一体であるのだから、生きる死ぬに必要以上に拘る意味がないということだと思っている。
 生きているときは坐禅しながら瞬間瞬間一生懸命生きるしかない。その事によって大宇宙の真理を体得できる。それが生きる目的。そこのところがはっきりしていないのに、ただ「生きていたい」と執着してはいけないということだと思う。「生」を軽んじているのではない。
 大宇宙の真理を体得するために、大宇宙と一体となるために生きているのなら、大宇宙の摂理としての「死」を「みだりに」恐れる必要はない。生きる目的がはっきりしているのだから、避けられない死というものを受け入れるということだと思う。
 もちろん、事故による不慮の死や殺人の被害者には同情する。遺族の悲しみ、怒りは当然だ。ただ、その悲しみや怒りが、社会の改善に向かって欲しいとは思う。
 あくまでも、私個人の考えなので他人にこうするべきだということではないことを理解いただいて読んで欲しいのだが、私は、いつ、どのように死ぬかは自分では決められないことで、事故死もあるだろうし、殺されることもあるかもしれない、病死もあるだろう。いつ死んでも仕方ない。だから、毎日坐禅して、瞬間瞬間を生きていこうと思っている。