正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十八

 岩波文庫112ページ「すでに仏性の処在なり、動著(どうじゃ)し、厭却(えんきゃ)するは外道なり。現前の衆縁(しゅえん)と認ずるは使得無礙風(すてむげふう)なり。これ最上乗なる是仏(ぜぶつ)なり。この是仏の処在、すなはち浄妙国土(じょうみょうこくど)なり」
 我々も含めすべての存在は仏性そのものなのだから、生きる、死ぬを目の前にしてあわてふためいたり、嫌だ嫌だと逃げ回ったりするのは、釈尊の教え、仏教ではない。目の前の現実をしっかり捉えて使いこなし、妨げられることがない。これが最も優れた仏としての具体的な在り方であり、具体的な行動である。このように仏として存在していることが、すなわち素晴らしい現実の世界なのだ。
 生きているのが辛いということもあるし、死ぬのは嫌だというのも普通のことだと思う。ただ、坐禅していると「今、自分は辛いと感じているなあ」とか「今は死にたくないなあ」と感じる、気がつくことができる。じゃあどうしようかと考えられると思っている。嫌だ嫌だと頭の中でぐるぐるさせていても、どうにもならないし、一層辛くなるんじゃないかな?
 現実の中でどう行動するかしかない。
 だから、現実をしっかりつかまえなければいけない。そのためには、坐禅するしかない。
 朝鮮半島でいざこざが起きている。アメリカと中国は主導権争いしているようだ。
 本当の事実が何か、よくわからないが、何にせよ、もう少し智恵がないものかと思う。大宇宙の真理に向かっているとは思えない。
 けど、一方でこれが現実なのだから、今の人類のレベルで最悪の事態にならないよう行動して欲しい。
 日本というちっぽけな資源もない、食料も自給できない国が、この世界で具体的にどう行動していくのか?それは事実関係を徹底的に突き詰めた上で、どう行動するか判断するしかない。
 政治家には、理屈は理屈でいいけど、その点、きちんとしてもらいたいですねぇ。