正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十九

 岩波文庫112、113ページ。ここは黄檗希運(おうばくきうん)禅師と南泉普願(なんせんふがん)禅師の問答が書かれている。
 「黄檗在南泉茶堂内坐。南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。黄檗云、「十二時中不依倚一物始得」」
 黄檗希運禅師が南泉普願禅師の寺の茶堂の中で坐禅していると、南泉禅師が来て質問をした。「体も精神状態も安定させたならば、仏性が現れるのは明らかという。この理由はどういうものか」
 黄檗禅師が答えた。「常に自分の外側の何ものも基準とせず、頼らないからです」
 坐禅は心身をバランスさせることだ。その状態が仏だと思っている。
 「十二時中不依倚一物」私はこの言葉は重要だと思うし、好きだ。
 どこで読んだか忘れてしまったが「倚止(いし)するものは動揺する」を読んで、そうだ、そのとおりだと感じいった。
 自分の行動基準は自分の中にあるのであって、外側にはない。財産を持っているとか、地位だとか、組織の評価だとかが行動を決めるのではない。そんなものは、状況によってころころ変わる。この世は無常で、常に変化している。さらに人間の脳味噌が考えつくことなんかに振り回されていたら、下手すりゃ死んでしまう。
 自分の内側にある基準で生きていく。澤木氏の自分が自分を自分で自分するだ。
 自分の内側にある基準で生きて、自分勝手にならない、大宇宙の真理に従って生きるためにはどうするか?
坐禅するしかない。坐禅によって心身がバランスし、大宇宙と一体になっていれば、人間は間違ったことはできなくなる。そう信じている。