正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十八

 岩波文庫114ページ「長老見処麼と道取(どうしゅ)すとも、自己なるべしと回頭(ういとう)すべからず。自己に的当(てきとう)なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露回々(ろういうい)なるがゆゑに」
 長老(仏道に優れた者)の考えかと言われたとしても、自分がそうであると考えを巡らすのは適切ではない。自分に当てはまると思ったとしても、イコール黄檗ではない。(念のためだが、南泉禅師と黄檗禅師の問答の解説の箇所)黄檗という存在は、自己という言葉だけに収まるものではない。長老の考えは、明白であり、広大なものであるから。
 長老、自己、黄檗、言葉の上では別々であるが、大宇宙の中で見れば、全て大宇宙の一部。言葉では色々言えるし、また言葉で表現することは大事だが、やはり言葉でしかない。現実に相対するには言葉だけではどうしようもない。
 また、言葉には限界がある。「どうして、そういう意味にとるの!?」と思ったことって多いんじゃないですか?
 坐禅していると、自分という存在が不思議なものに感じられることがある。ちっぽけな部屋の中で貧相な人間がぽつねんと坐禅している。その姿を高い空から見下ろしているような感覚が起こることがある。
 冬など坐禅していると体全体からかげろうのように空気が揺らいで立ち上っているのが見えることがある。周囲の空気より、私の肉体という物質の塊の方が温度が高いので対流が起きている訳だ。
 そうしたとき、「ああ、自分は大宇宙の中の存在だなあ」と思う。大宇宙の一部だなあと思う。前にも書いたけど、道元禅師は人間のことを臭皮袋(しゅうひたい、臭い皮の袋)と表現される。私は、大宇宙の一部を皮袋で包んだものが人間、だから大宇宙=人間だと思っている。坐禅していると、それが実感される。
 長老、黄檗、自己、それらは言葉では言い表せないが、大宇宙の中のことであり、「それは自分です」とか言うレベルのことではない。
 今は「自分は、自分は」と言いつのる世の中に見える。自分をしっかり持つのは当たり前だが、私からすれば、坐禅していない限り、「自分」というものは絶対にわからない。
 本当の「自分」が分かっていないのに、「自分は!」と言って回り、あれこれ訳の分からないことをやらかすのはとても危ないと思う。
 けれど、そんなレベルのことが「自己主張」とか「アイデンティティ」とか呼ばれちゃっている。
 やれやれ。時々、ほんとに疲れてしまう。「お前なんぞが勝手に疲れることなんて知ったことか!」と言われてしまうでしょうね。はい、その通りです。でも坐禅してくれませんかね。