正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十

 岩波文庫114、115ページ「しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得(どうて)はこの道取なること、はかるべきにあらず」
 そういうことであるから、不敢(どういたしまして)という言葉は文字通りの不敢ではない。このように「不敢」と言った内容を推し量るということは、それをしようとしても無駄である(できるものではない)。
 大宇宙の真理を言葉で表そうとしているのだから、一つの言葉で足りる訳がない。だから、不敢という言葉だけ取り上げて、あーでもない、こーでもないといじくり回しても、あまり意味はない。
 日常生活でも、組織でも、国でも、色々なことが起こり続ける。それにどのように対応するか、瞬間瞬間問われている。坐禅して大宇宙の真理に従って行動するしかないが、相手にどのように伝えるかはとても難しい。
 坐禅すると普通の人になるので、話すことはある意味、何の変哲もない、当たり前のことになる。そうすると「なーんだ」と言われたり、言われなくても、そういう顔をされることが多い。
 華々しく、大きな声で、威張って、断定的に言うと、「あの人は偉い人だ!すごい人だ!」と思われることが多いんじゃないかな。
 ほんとにそうか?ということでもそれが通っちゃったりする。特に地位のある人が言うとね。
 でも前回も書いたけど、何をするか、行動が問題で、現実が答えを出す。
 できるなら、大宇宙の真理に従った高度であって欲しいと思う。そのためには坐禅するしかない。