正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十二

 前回にちょっと付け加えます。「一頭水牯牛出来道吽吽」水辺で飼われている一頭の牛がモウモウと鳴く。当時の中国の農村ありふれた光景なのだろう。
 今は派手に人目に立つことが注目され、持て囃されているけれど、大宇宙の真理は、ごく普通のありふれたことにある。ここは大事なところだと思う。日常のごくありふれたことがちゃんとできないなら、話しにならない。
 では、岩波文庫115ページ「かくのごとく道取するは道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こゝろみて道取してみるべし」
 このように言っているということは、大宇宙の真理を言い得ているということ。この大宇宙の真理を言っていることを、さらに又別に言い得るかどうか試みるべきである。
 仏教は現実を相手にしているのだから、固定的に考えてはいけないということだろうと思う。現実は瞬間瞬間変わっていく。無常だ。その中で、一つの固定した言葉にとらわれてはいけないのだと思う。「一頭水牯牛出来道吽吽」だからと言って、思考停止しては駄目なのだろう。何回か書いたけど、澤木興道氏の「自分が自分で自分を自分する」のだから、自ら生きている中で、この言葉を活かさなければいけないのだと思う。だから道元禅師は試みに言ってみろとおっしゃっているのだと考えている。
 固定的にならない、拘らないというのは、言うは易し行うは難しだと思う。人間はかなり変化を嫌がる側面があると思う。一方で、「過去にとらわれてはいけない」という言葉にとらわれて、現実を無視した、すっとんきょうなことを言ったりやったりもする。
 坐禅して普通の状態にならないと、このことは解決しないと思うのですけどね。