正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十三

 岩波文庫115ページ「南泉いはく、「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還(しょうすいせんしゃち、しょうあいせんきょうしもじんげん)」いはゆるは、「こんづのあたひははしばらくおく、草鞋(わらじ)のあたひはたれをかしてかかへさしめん」となり」
 ここのところは、道元禅師が「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還」を日本語に訳しておられら。その後、解説をされる。
 こんづというのは、水野氏の脚注では「煮沸して作った携帯用の水」とのこと。当時の僧侶は師としての真の仏祖を求めて、寺を経巡り歩いたそうな。「あ、こいつは駄目だ」と思えばさっさと出立してしまったという。
 そのように僧侶が旅することを「雲遊萍寄(うんゆうひょうき)」というらしいが、その時必要になるのが、携帯用の水。清潔な水がなければ命に関わる。草鞋は歩いて旅するのに不可欠。
 携帯用の水の代金は取り敢えず置いておくが、草鞋の代金は誰から返してもらったらよいか、という意味になるようだ。
 この解釈については次回から道元禅師の解説を書くことにする。
 先日、書店に行って仏教の書棚を眺めてみた。外国でもZENは広がっているらしい。それは良いことだと思うけど、私がちらっと眺めた範囲では正直違和感があった。特に「瞑想」「ヨガ」との組合せて禅が語られているように感じられたところだ。坐禅釈尊が発明されたものではなく、その前から修行法としてあったとのことだし、それはヨガの中なのかもしれない。
 ただ、私は道元禅師原理主義者なのです。道元禅師は「瞑想」というような概念は語られておられないと思っているし、ヨガのような修行法も書き残されていないと思う。純粋に坐禅しつつ仏教を勉強しなさいとおっしゃっていると思っている。坐禅していると、いわゆる「瞑想」のような状態になることもあるが、それはそういうときもあるというだけのことで、瞑想状態になることが坐禅の目的ではない。坐禅の目的は坐禅すること=仏となることだけだと思う。
 何だか坐禅に夾雑物を混ぜたり、坐禅に妙な目的を持たせたりしているように感じる。
 ただ念のために書いておくけど、瞑想したりヨガをやったりして、幸せになり、元気になり、生甲斐が生まれたのなら、それはその人にとって素晴らしいことだ。だから私は、そういう方法を否定しているのではない。私はそうはしないという個人の立場を書いているだけ。なので、非難したり、苛めたりしないでね。お願いいたします。