正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十四

 岩波文庫115ページ「この道取の意旨(いし)、ひさしく生々(しょうじょう)をつくして参究すべし。漿水銭いかなればしばらく不管なる、留心勤学(りゅうしんきんがく)すべし」
 この「漿水銭且致、草鞋銭教什麼人還」が何を意味するのか、教えているのか、生涯を通して勉強し続けなければいけない。漿水銭は、どうして一旦問題としないのか、常に心に留めて勉強に勤めなければならない。
 仏教は一生涯瞬間瞬間、修行の積み重ねだと理解している。仏向上心という言葉があるように例え「仏」というような境地に至ったとしても、修行(坐禅)をしなくなったらおしまい。仏教とは何の関係もない人になるということだと思っている。だから「生々をつくして」「留心勤学」しなければならない。
 では、何故、携帯用の水の代金は一旦問題としないのか?正直、私には分からない。
 真の仏教・仏道を求めて旅をする。これは修行だ。その旅をするには、携帯用の水と草鞋は不可欠だ。
 坐禅は仏になるため(好きな言葉じゃないけど悟りをひらくため)のものではない。坐禅すること=仏なのだ。修証一如(しゅしょういちにょ)という言葉があるように、修行と仏になることは別のものではない。
 だから、携帯用の水と草鞋を分けるのは何故なのかな?
 南泉禅師が黄檗禅師を試すために、少しからかう気分もあって、一方は一旦置いておくけど、もう一方の方は許さないぞ、と言ったのかな?
 すいません。よく分かりません。生々をつくして考えます。