正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五十六

 岩波文庫115、116ページ「いまいふべし、「若不還銭(にゃくふげんせん)、未著草鞋(みじゃそうあい)(もし銭を還(かえ)さずは、未だ草鞋をはかじ)」。またいふべし、「両三䩫(りょうさんりょう)」。この道得(どうて)なるべし、この宗旨(そうし)なるべし」
 ここで言うべきであるのは「もし草鞋の代金を還さないということは、まだ草鞋を履いていないということ」ということである。。また、「二、三足でしょうか」ということである。これは言い得ている言葉であり、核心である。
 草鞋の代金を還さない=草鞋を履いていない、草鞋の代金とは仏となった価値、これを還さないというのは仏になっていないということではないかと思う。草鞋を履いていないというのは、修行をしていない、ということになるのだと思う。
 水野氏の脚注にあるように修証一如であり、仏となること=修行なので、草鞋の代金と草鞋を履いて行脚することは別のことではない、ということではないかな。
 また、仏教は具体的な行動、現実に対しどう行動するかを問題とするから、「二、三足」という具体的な返事でも良いのだと思う。
 何回も書いているけど、今の世の中、言葉は溢れているけど、具体的にどうするのか、さっぱり分からないことが多い。コロナについても、何だか分からないことが多いと感じる。
 まあ、コロナ自体どういうものかはっきりしてないこともあるんだろうけど。数値目標というか基準がなくなったと問題にしている人たちがいるけど、個人的には数値目標・基準は、相当前提を厳格に置かないと、不要な混乱を起こすとは思う。学生時代に「統計で嘘をつく方法」という本を読んだことがある。数値は使いよう、見せ方によって、世の中を危険な方向に持って行きかねない。
 政治としては国の経済力の維持とコロナのリスクを天秤にかけて政策を決めているのではないかな。コロナ対策だってお金かかるしね。
 私は政治家にしっかりして欲しいと期待している。民主主義なのだから当然だと思っている。一方で政治が何を言おうと自分の人生は自分で決めるしかないと思っている。そのためには坐禅するしかない。