正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十

 岩波文庫116、117ページ「大潙の道(どう)は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得(こうふて)なりやといふ。仰山いはく、「黄檗は陥虎(かんこ)の機あり」。すでに陥虎することあらば、捋虎頭(らっことう)なるべし

 潙山禅師の言ったことは、その問答のとき黄檗は南泉禅師の言わんとすることを捉えられなかったのではないかということである。仰山禅師は「黄檗禅師は虎をも捕らえる力がある」と言った。虎を捕えることができるのならば、虎の頭を捕らえることができる。
 虎の頭というのは、虎の一番重要な部分、つまり大宇宙の真理の核心ということではないかと思う。
 虎を捕らえ、更にその核心(頭数)を捕らえる。全体を俯瞰的に捉えると同時に、全体の構成要素も理解し、その核心を捉える。ビジネスでも何でも、生きて行く中ではとても大事なことだと思う。
 今のコロナについても、一体、国全体としてどうなっていて、何が核心、最も重要なことなのか、私には何だかよくわからない。
 政府の方針がコロコロ変わると批判する人もいるようだけど、修正しないより修正した方がいいとは思う。
 治療薬もワクチンもない。けど、仕事がなくなって生活に困窮する人たちがたくさん出てきている。国民の生活が困窮すれば、国力が落ちる。国力が落ちれば、国として何かしようとしてもお金がない、ということになるのではないのかな?
 治療薬・ワクチンないなか、感染は広げない、経済は回す。二者は両立しないのだからリスクをとるしかない、どの程度なら、取れるのか、そこは知りたい気がする。
 政治家は選挙に通らなきゃ話にならない。支援者はもちろん、国民の雰囲気も気にしなきゃならない。いいか悪いか別にして、それが現実なんじゃないかな。だから全面的に信頼するなんて、与党だろうが、野党だろうが、あり得ないとは思っている。
 私は坐禅して、正法眼蔵読んで、どうしたらよいか教えてもらいます。