正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十一

 岩波文庫117ページ「虎を陥れ虎を捋(と)る。異類中に行く。仏性を明見しては一隻眼(いっしゃくげん)を開き、仏性を明見しては一隻眼を失っす。速(すみ)やかに道(い)へ、速やかに道へ。仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり」
 ここでは、漢文の原文を書くと長くなりすぎると思ったので、書き下し文とした。
 この中で、他にもよく出てくる言葉として「異類中行(いるいちゅうぎょう)」がある。水野氏の脚注では「南泉の語。ちがう仲間の中にも自由に入っていく」となっている。虎の中に入って行って虎(真理)を捉えるということだろうか。仏教は、行動を重視する。言葉で概念的なものを扱うことに重きを置かない。だから、ちがう仲間でも自由に入って行くという行動が大事だ、としてあるのだと思う。
 このことは正しいと思うが、私は「異類中行」を、周囲は自分と異なった意見、行動をしているが、自分は大宇宙の真理に従って周囲とは異なる行動をとる、と解してよいときもあると思う。別に何でもかんでも周囲に反発するということではなく、大宇宙の真理に照らして、周囲と異なる行動をとる場合もあるということ。
 周囲が大宇宙の真理に照らして正しくないけれど、しかし、今は行動しない方がよいということもある。
 世の中、そんな単純ではないですよね。
 仏性明見は、水野氏は、仏性が仏性を見ると脚注されている。西嶋氏は仏性が明らかに現れると解されている。
 学問としてどちらが正しいか、私にはわからない。
 私としては、仏性が仏性を見る、仏性が明らかに現れる、どちらも仏性を体得した状態で、そのときには一つの目が開くとか失うとかというのは関係ない、どうでもよいということだと思っている。
 速やかに道へというのは、問答ではよく出てくる言葉で「速道(しゅくとう)」と書く。わかっているなら、パッと答えられるだろうということではないかな。
 このように仏性を勉強していくと、言葉では言い表せない何か(大宇宙の真理)を得ることができる。
 つまるところ、言葉では言い表せない何かである大宇宙の真理を体得することなのだけれど、それをどのように理解してもらうか祖師方は苦心されているのだと思う。
 この頃は、格好いい言葉を口にしているけど、「この人は本当このところは分かっているのかな?」という人だらけ、と感じられて仕方がない。