正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十四

 岩波文庫117、118ページ「趙州(じょうしゅう)真際大師(趙州従諗禅師)にある僧とふ、「狗子還有仏性也無(狗子にまた仏性有や無(なき)や)」。この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。」
 趙州従諗禅師は南泉普願禅師の法をついだ人。趙州従諗禅師にある僧が質問した、「犬には仏性は有るのでしょうか、無いのでしょうか」この問の真の意味を明らかにしなければいけない。狗子とは犬のことである。
 犬に仏性が有るのか無いのかという問から、この後、道元禅師が解説を展開されていく。
 なんだか、暇人のやり取りのようだけれど、道元禅師は、これを深く解説されている。
 仏性は抽象的、概念的なものではない、ということなのだろうと思っているけど、それは次回以降。
 最近、世の中に溢れている言葉が、私には鬱陶しくて、耳障りで仕方ない。だから、何なんだ?本当のところは分かってないのに、ぎゃあぎゃあとうるさい!と思うことだらけだ。別に他人に聞かせる価値のあることなの?とも思う。そんなこと臆面もなくよく言えるねと思う。
 まあ、お前の書いてるこのブログも同じだろ、と言われてしまうだろうけど。
 ただ、以前に書いたように、これは私の「遺書」なので許してください。