正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十五

 岩波文庫118ページ「かれ(犬)に仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは鉄漢また学道するかと問取するなり」
 この問は、犬に仏性が当然りますよねという質問ではない、当然無いですよねと質問しているのでもない。この問いは、十分修行のできた人(水野氏脚注)でも修行し続けるのですよねときいているのである。
 仏性の有無といような抽象論、概念論には意味がない。現実の中で修行し続けることがすべてなのだ。
 先日、ある美術展に行ったら、「悟りがある」「悟りに到達する」ような解説が書いてあった。これが「悟りですよ」なんてものはないと澤木興道氏も西嶋氏もおっしゃっている。「悟りを開く」のが目的なら、それは仏教ではないと私は思う。坐禅しながら、必死に一生懸命生きていく、それが仏教だと思っている。
 平穏だとか、安らかだとか、そんなものになろうと努力したら、逆に苦しくてしょうがないんじゃないかと思っている。
 そんなものになれると言うのは、私は信じないし、そんなものになれる訳ないし、なりたくもない。
 坐禅しながら瞬間瞬間生きていくしかない、苦しいなら、それは苦しいとき。楽しいときは、楽しいとき。
 コロナにしても、現実に存在して、対応しなきゃならない。感染しにくい、感染させにくい方法はあるようだから、今はそれをするしかないんだろう。他に何をしようというんだろう。できることをするしかない。
 それでいいじゃないか、ほかに何を求めるんだろう?