正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百六十六

 岩波文庫118ページ「あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人(しょうにん)をみる風流なり」
 (この問を趙州従諗禅師にした僧は)相手が趙州禅師で相手が悪く、ひとたまりもなく(水野氏脚注)、残念きわまりないけれども、このような質問をしたというのは、(石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師が三十年弓を射って半箇の聖人を射得たとの話が伝わっている)三十年をかけて半箇の聖人(半箇だろうが全箇だろうが聖人に変わりはない)を見ることができたようなものである。
 とにかく坐禅し続けることによって、大宇宙の真理は体得できる。もっと正確に言えば、坐禅している限り大宇宙の真理の中で生きられるということだと思っている。
 とにかく常に坐禅し、瞬間瞬間どう生きていけばよいか、一生懸命生きていくしかない。例え、それが、間違ったことをしてしまったり、この僧のように質問しても、ひとたまりもなく一撃で扱われたとしても。