正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十一

 岩波文庫118、119ページ「いはゆる宗旨(そうし)は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生(そもさん)となり」
 ここでの重要なところは、一切衆生が言葉では言い表せない何かであるならば、仏性も言葉では言い表せない何かであるし、犬も言葉では言い表せない何かである、と言っているのであり、そのことをどう考えるか、ということである。
 有るとか無いとか概念の問題ではない、ということだと私は思っている。
 仏教は言葉遊びではないのだ。現実の中で、どう生きるかなのだ。
 道元禅師は正法眼蔵の中で繰り返し説かれていると思っている。そして、坐禅しながら読まなければ、こなことは絶対に読み取れない、理解できない。
 コロナにしても、わーわー言葉を費やしてもしょうがないじゃないかと思っている。感染しないように、とりあえず行動するしかない。
 政治家って、最悪の事態回避のために、厳しい決断をして責任とるしかないのでは?お気楽に批判ばかりしてる人たちってどうなんですかね?言論の自由のためには仕方ないか。
 PCR検査をもっとやれ、とかエピセンター対策をやれとか(エピセンターとか言わずに平易な言葉を使った方がいいと思いますけどね。平易にいうと沽券に関わるのかな?)、現実にやれるのか根拠も無しに言葉だけ発してもしょうがないんじゃないかなあ。まあ、きっと根拠有るんでしょう。そう信じます。