正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十六

 岩波文庫119ページ「業識いまだ狗子を会(うい)せず、狗子いかでか仏性にあはん」
 過去の経験の積み重ね、過去の経験にとらわれていては、犬は犬として現実の絶対の存在であって概念・観念で理解することはできないということがわからないし、犬が仏性に会う、犬に仏性が有るとか無いとか概念・観念では取り扱えないということもわからない。
 結局のところ、現実をしっかりとつかむしかない。この現実をつかむということが、とても難しい。知識、学問は当然重要だ。しかし、現実の中で知識、学問を活かせるかは、現実をしっかりつかめているかどうかにかかっている。
 最初の頃に書いたが、私が仕事の上で本当につらい思いをして、その結果正法眼蔵を手に取ったのだけれど、はっきり言って、周囲の人たちは現実が見えていなかったと思う。何故見えなかったのか?組織の仕事というものはそういうものだという観念にとらわれている、組織の評価が行動基準になっている、が主な理由だと思っている。
 現実より、上に書いたような概念・観念の方が大事じゃ話にならないと思うけど、世の中にはままあることだ。というより、そんなことばかりにも思える。
 世の中、社会は複雑怪奇だ。だけど、大宇宙の真理は言葉では言い表せない何かだけど存在する。その真理に沿って行動していくしかない。坐禅すれば、大宇宙そのものに自分がなれる。現実が感得できる。その現実は、残酷、冷酷かもしれないけど、坐禅して向き合うしかない。どうしたらよいかは、坐禅が教えてくれる。