正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七十九

 岩波文庫119ページ「趙州いはく、「有」」
 (僧の問いに対し)趙州は「有」、有ると答えた。
 前回の問答では「無」と答えた同じ人が今度は「有」と答えている。
 論理が一貫してない、矛盾だ、と言う人がいるだろう。訳のわからん禅問答など時間の無駄と言う人もいるだろう。
 この後、道元禅師が解説される。
 先に私なりの受け取り方を書いてみる。
 仏性に関して言えば、概念・観念、言葉を超越したもの。超越という、とものすごいもののようだけど、つまるところ、現実ということだと思っている。
 仏性を勉強することは現実を勉強することで、そのために「狗子の仏性有無」を材料にしているのだと思う。
 現実は裏から表から四方八方から丹念に見なければいけない。現実は単純なものじゃない。現実をしっかり見るとき、その妨げになるのは業識(過去から積み重なった経験)や利得だ。
 あんまり単純に「うがい薬がコロナに有効」みたいなことは言わない方がいいと思う(単純に言った訳じゃないのかもしれないけど)。
 現実を見るときには、坐禅しなきゃ無理だ。心身がバランスして、大宇宙とぶっ続きになっていなきゃ、わかる訳ないと思っている。
 コロナにしても、結局のところ何がしたいのかよくわからん。コロナの危険性ってどの程度なのかも、よくわからん(お前が知らないだけだと言われちゃうのかな?)。感染者が増えた増えたとメディアは言うけど、この増え方は危険なのか?常識的には増えるに決まってると思うけど。WithコロナだとかAfterコロナとか、言葉遊びみたいなことは、正直うんざり。
 コロナの危険性と最悪シナリオとその回避策だけでもだけでも明示してもらえませんかね。コロナ差別も実際起こっていることだし。