正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十

 岩波文庫「この有(う)の様子は、教家(きょうけ)の論師(ろんじ)等の有(う)にあらず、有部(うぶ)の論有(ろんう)にあらざるなり」
 趙州禅師の「有」は、経典により論理を説いている者たちが言う「有」ではない。(仏滅後、五つの教団ができたが、その中の)説一切有部(せついっさいうぶ)という一派が論じる「有」ではない。
 Wikipediaによると説一切有部は「主観的な我(人我)は空だが客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在するとした」のだそうだ。よくわからないけど。まあ、事物は存在するのだとしたということなのかな?
 同じことを繰り返すようだけど、頭の中の概念論・観念論で有るとか無いとか言う意味はない。つべこべ言う必要はなくて、犬は犬として実在するのだ。
 仕事をしていて、私が厄介だなと思うのは、理屈として正しいと強硬に主張して、そこから動かない人。現実はそうなってないでしょ、といくら言っても、「いや、自分は正しい。正しいのだからうまくいく」としか言わない。では、具体的・詳細なアクションプログラムがあるかというとそれはない。
 間違っていると認めると、評価が下がると思って譲らないのか、本当に正しいと思っているのか、わからないけど、組織にとってはマイナスだ。案外、こういう人が偉くなったりしてるから、余計厄介。
 どうしたものか、頭を捻ることになる。とても疲れる。
 現実をしっかり受け止めるって、言うほど簡単じゃない。
 どうするか?坐禅するしかない。