正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十七

 岩波文庫120ページ「この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布(るふ)せりといへども、いまは趙州の道得(どうて)なり」
 趙州禅師の「為他知而故犯(他、知りて故(ことさら)にが(ため)なり)」という言葉は、世俗的にも世の中で広く使われているけれども、ここでは、真理を体得した仏祖である趙州禅師の言葉である。
 世の中では「あの人が言うんだから間違いない」「あの人が言うんだから仕方がない」というようなことは、多くあると思う。
 問題は「あの人」が正しいのか、信じるに足る人なのかということ。組織では、上位職者が「あの人」になる。最終的には組織のトップが「あの人」だ。私の経験上では、いかがわしい「あの人」もかなりいると思っている。私の理解力が低いのかもしれないけど。
 信じるに足る人を見つけられるかは、生きていく上での重要なことだと思う。道元禅師も正師に従って修行するようにおっしゃっている。
 前に書いたけど、私は対人恐怖気味で、人間は基本的に嫌いだ。だから正法眼蔵道元禅師の著作を通じて、道元禅師を師としている。本来は違うのだろうけど。
 昔の僧は真の師匠を求めて、旅をして回った。「あ、こいつは駄目だな」と思えば、さっさと旅立ったそうだ。
 今の仏教界がどうなっているか知らないが、労働市場では、流動化、転職が珍しくなくなっている。いいことだと思う。いかがわしい上司や組織のもとにはいない方がいいと思う。
 ただ、「いかがわしい」と思う方に問題がある場合もあるし、ややこしい。
 自分の人生は自分で生きるしかないので、行動してみるしかない。
 私は坐禅しながら瞬間瞬間生きていきます。