正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百八十九

 岩波文庫120ページ「この道得(どうて)は、疑著(ぎじゃ)せざらん、すくなかるべし」
 趙州禅師が「しりてことさらをかす」とおっしゃったことを、どういうことだろうかと疑う人は少なくないだろう。
 私は仏教哲学を究めたいのではない。現実に生きていくために仏教が、正法眼蔵が私を救ってくれたのだ。正法眼蔵がなければ死んでいたと思う。
 道元禅師は、大宇宙の真理、言葉では言い表せない何かを何とか伝えようとされている。ここでも、趙州禅師の言葉を疑う人は少なくないだろうとされて、この後、解説をされている。仏教を広めるために、読む人の立場に立たれていると私は思う。
 話は脱線するが、偉いと言われている人が言うと「何か変だな」と思ってもそのままやり過ごされてしまうことって多いと思う。
 後で確認してみると、言った本人も実は良く分かっていなかったりする。
 それでも時間は経過し、いわゆる「忖度」で訳のわからんことが実行に移されてしまったりする。まさに、滑稽と悲惨だ。
 おかしいことは、やはり正さなければいけない。ただ、どうするかは、複雑怪奇な現実の中で判断しなければならない。どんなに批難され叩かれようが徹底的に戦うか、次善のやり方で周囲と協調するかなどなど。
 どうしたらよいかは、坐禅が教えてくれる。