正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百一

 岩波文庫122ページ「長沙景岑和尚(ちょうしゃけいしんおしょう)の会(え)に竺尚書(じくしょうしょ)とふ、
蚯蚓(きゅういん)斬れて両段(りょうだん)と為る、両頭倶(りょうとうとも)に動く。未審(いぶかし)、仏性阿那箇頭(ぶっしょうおなことう)にかある」
師云(しいはく)、「妄想(もうぞう)すること莫(なか)れ」
書云、「動ずるはいかがせん」
師云、「只(ただ)是れ風火(ふうか)の未だ散ぜざるなり」」
 長沙禅師の修行者の集まりで、竺という名前の尚書(尚書というのは役人の位で、今の首相くらいの人らしい)が言った。「蚯蚓(みみず)が二つに斬れて、両方とも動いています。仏性はどちらにあるのでしょうか」それに対し長沙禅師は言った「妄想するな。つまらないことを考えるな」竺尚書は言った「しかし、両方とも動いているのはどうしますか」禅師は言った「風火が未散なのだ。まだ動く力が両方に残っているのだ」
 みみずが2つに切れた。切れたけど両方動いている。仏性はどちらにあるか、という問いに対し、長沙禅師が「妄想するな。つまらんことを考えるな」と言ったということ。
 この後、道元禅師が解説をされる。
 私は、この生きている現実をいかに受け止めていくかを説かれていると思っている。
 精神、知識偏重ではだめだ。この現実、瞬間瞬間一生懸命行動することが真実。
 ここの問答は、正法眼蔵仏性巻の最後に配されている。道元禅師は重要だとお考えになったのだと思う。