正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百三

 岩波文庫122ページ「蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし」
 みみずはもともと一つとは言えない、切れて二つになったとも言えない。一つであるとか二つであるとか、そのように言うことについて、まさによくよく考えてみなければいけない。
 西嶋和夫氏は提唱録の中で、「一匹のみみずといっても、たくさんの細胞の集まりだとも言える。従って本当に一つ、一匹であると言いきれるか」という趣旨のことを書いておられる。
 私は十分に分かっているとは言えないが、例えば宇宙はどのように生成したのか、ブラックホールなんてものが生まれたりしているという。そのような想像を絶するようことが現実に起こっていることを考えると、目の前のみみずを一つという単位で考えるというのが、果たしてこの世界の実情に照らして適切なのか、何だか疑問に思えてくる。私の家の小さな庭の草木も毎日、もっと言えば朝・昼・夜で様子はかなり変わったしまう。
 一つ、二つという概念そのものも、この現実の中でどう考えたら良いのだろうか。ましてその概念に仏性を重ね合わせて考えるのが適切なのかと思えてくる。
 念のため書いておくけど、「みみずは色々な物質が集まっているもので、それを人間がみみずだと考えているだけ。だから「みみず」というものは実在しない」なんて考えは、私には到底理解できない。
 ここで書かれていることは、仏性についての解説であり、その中で、一つ、二つという概念をどう捉えるかを道元禅師が説かれている、としか思っていない。
 今、安直に結論に行き過ぎじゃないですかね。「事実」といっても、どう把握し、どう評価するか、人によって千差万別。表層的なところで、あーでもないこーでもないと言って、得意になったり、悔しがったり、他人を攻撃したりしている。
 坐禅して心身バランスさせて、落ち着いたらどうですかね?