正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百四

 岩波文庫122、123ページ「「両頭倶動(りょうとうぐどう)」といふ両頭は、未斬(みぜん)よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」
 二つとも動くというけれどその「両頭」というのは、切れる前は一つだとするのか、仏というのは常に修行(坐禅)をし続けるのだが、その時には一つだと言うのか。
 「仏向上のとき一つ」というところは、西嶋氏は「一つ、二つというようなものを超越した境地において一つ」と解釈されておられる。
 私は正直どのように解釈、訳せば良いのか明確にはわからない。ただ思うのは、仏性について説かれている中でのことだから、単純に切れる前は一つという状態の人と、坐禅を続け大宇宙の真理を体得した人(仏性とは何かを体得した人)の「一つ」は違うということなのではないか、と思う。
 世の中、いろんなことが起こる。その背景、原因は、様々な要素が複雑怪奇に絡みあっていると思う。けど、それをたった一つの立場、視点で「こうだ!」と言っている人が多いなあと感じる。言葉のうえでは単純明快だから、凄い人のように見えるけど、よくよく疑って見た方がいいと私は思っている。一つの立場・思想に凝り固まっていて、他の見方ができない人かもしれないし。
 坐禅して宇宙とぶっ続きになって瞬間瞬間生きていこうと思ってます。本来の面目になって、普通に当たり前に。