正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百五

 岩波文庫123ページ「両頭の語、たとひ尚書の会不会(ういふうい)にかゝはるべからず。語話をすつることなかれ」
 一つとか二つとか言っているが、そのことがどういうことか尚書がわかっていてもいなくても、それはどうでもよい。ただ、「両頭」という言葉はどういうことなのかを放っておいてはいけない。
 私の経験の中でも、何だか良く分かっていなくてとんちんかんなことを言う人間はたくさんいる。
 ただ単に「こいつ馬鹿だな」で済ましてはいけないことも随分ある。(もちろん、ただ馬鹿なだけな奴もいるけど)
 何故この人はきちんと理解できなかったのだろうとか、とんちんかんだけどその中に「なるほど、そういう見方、考え方もあるのか」とか、気付くことや考えなきゃいけないことが見つかったりする。
 ここで扱っているのは仏性という重要な問題。だから、この問答について尚書が分かっているかどうかという些末なことにとらわれず、仏性という本質の問題を考えなければいけないということになる。
 正法眼蔵は難しいと言えば難しいけれど、この箇所のように日常生活で思い当たることもたくさん書かれている。
 もっとも、仏教は現実の瞬間瞬間をどう生きるかを説いているのだから、当たり前と言えば当たり前だけど。
 坐禅して正法眼蔵を読み続けていきます。