正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百六

 岩波文庫123ページ「きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか」
 二つに切れたとしてもそれは一つ(倶に動いているし)だとしたら、そのほかにさらに一つというものがあるのか。
 正法眼蔵を読んでいると、道元禅師という方は、どうしてこういうふうに考えることができるのだろう、と思う。驚くというレベルを超えている。
 ここのところも、一つとか二つとは何か、を追及されている。
 概念としての一つ、二つを仏教でどう扱うか、ということではないかと思う。
 西嶋和夫氏が書いておられるように、人間というものも、分子レベルとか、遺伝子の構造レベルだとか、一つの人間という物体もどんどん細分化されていっている。それはそれで、医療の分野とか様々なところで役に立つのだろう。
 ただ、私個人としては、そのように科学が発展するのは素晴らしいと思う一方で、何故分子というものが生まれたのか、何故それが結合したり、分離したりするのか?遺伝子はどうして生まれたのか、遺伝子の構造が変わったりするのは何故か?とか不思議だという思いが強烈にする。私はまったくの素人なので、何も分からず書いているので、見当違いなのかもしれないけれど。
 道元禅師も仏教について、これはどういうことかということを追求し続けてこられたのだど思う。
 私も自分のできる限り、日常生活の中で「これは何故」と坐禅を通じて追い求めていきたいと思う。