正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百七

 岩波文庫123ページ「その動といふに倶動といふ、定動智抜(じょうどうちばつ)ともに動なるべきなり」
 動というときに俱に動くというのは、定(じょう)つまり坐禅によって心身がバランスした状態における動き(行動)であるし、また心身がバランスした状態で生まれる直観である智慧による動き(行動)も、両方とも「動」である。
 仏教は行動を追求するものだと思っている。坐禅によって生まれる心身のバランスも智慧も瞬間瞬間の行動を可能にするためにある。
 どんなに立派な理屈をこねても、ユートピアのような世界を唱えても、じゃあどう行動していくの?というところが空っぽじゃしょうがない。小さな小さな日常の積重ねしか目的に到達する方法はない。
 総裁選がどうの、野党の体表選がどうのと言っているけど、まあ、何が現実にできるのか、よく見ていくしかない。
 なんだか「したたかに」とか、複数の立候補者が言っていたようだけど、政治家がいまさら「したたか」なんて言っているのを見ると、がっかりという気が私はする。日本国内でさえ複雑怪奇、世界を相手にすれば魑魅魍魎の世界なのではないのかな。「したたか」なんて当たり前のことで、そんなことをもっともらしくいっているのを見ると、大丈夫かいな?と思ってしまう。
 一方で、この世の中の一人一人が日常生活を積み重ねていくことでしか世界は良くならない。政治家に期待はするけどもね。
 私は坐禅して生きていきます。