正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百八

 岩波文庫123ページ「「未審、仏性在阿那箇頭(みしん、ぶっしょうざいおなことう)」。「仏性斬為両段(ぶっしょうぜんいりょうだん)、未審(みしん)、蚯蚓在阿那箇頭(きゅういんざいおなことう)」といふべし」
 一体仏性は二つに切れたどちらにあるのでしょうかというが、これは仏性が二つに切れた、一体みみずはどちらにあるのでしょうかというべきである。
 一切衆生=悉有=仏性なのだ。そして仏性を追求するなら、二つに切れたみみずのどちらに仏性があるのかという問いは見当違いで、仏性は二つに切れたみみずのどちらにあるのでしょうかという質問の方が適切なのだろう。
 道元禅師は一つのテーマをいろんな角度から、あるいはひっくり返した角度から解説をされる。世の中の実在というのは複雑で、そうそう単純にはいかない。ここで難しいのは、根底には大宇宙の真理があるということだ。坐禅によって心身をバランスさせ、智慧が働く状態で、様々に考えなければいけないと思っている。仏性とは何か、その真実を伝えるにはいろいろな角度で説く必要があるのだと思う。
 私は、上に書いたとおり悉有=仏性なのだから、みみずと仏性を分けて考えること自体意味がないということなのだと思う。そう言ってしまえばそれだけのことだけど、それを説くためには色々な角度で、表から裏からよくよく考えなければいけないと思う。
 取るに足らぬ些末なことを矮小な視点で、凝り固まった思想でぎゃーぎゃー言っているのをよく見かけるけど、貴重な限られた人生を無駄にしちゃいけないのにな、と思う。
 さて、私は少しはましに普通に当たり前に生きているだろうか。坐禅して回光返照(えこうへんしょう)しながら生きていこうと思います。