正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その二百十

 岩波文庫123ページ「「両頭俱動(りょうとうくどう)、仏性在阿那箇頭(ぶっしょうざいおなことう)」といふは、俱動ならば仏性の所在に不堪(ふかん)なりといふか」
 「二つに切れた両方が動く、仏性はどちらにあるのでしょうか」と言うのは、両方とも動いているならば、仏性の所在としては適していないと言うのだろうか。
 私なりには、こちらには仏性が有り、あちらには無い、などということをあれこれ頭の中でこねくり回しても意味がないということなのではないかと思っている。
 正直に言って、どうでもいいような些末なこと、小さな脳味噌で思い付いた取るに足らないこと、頑なに一つの思想にしがみついていること、こんなことが多すぎやしないかと思う。
 別に思想を否定しない。人類は色々な思想をもとに発展してきたとは思う。けど、現実が見えなくて思想にしがみついているのは危険だと思う。
 二つに切れたみみず、二つとも動いている、仏性はどちらにあるか?仏性、仏教はそんなことをどうこういうようなちっぽけなものではない。
 ただ、こういう問答を取り上げて道元禅師は仏性を説いておられるということ。
 生きるというのは瞬間瞬間死に直面していると感じる。コロナが出現して、感染して死ぬかもしれないと一時期大騒ぎだったけど、コロナがあろうがなかろうが、常に人間は死に直面しているんだ。
 ついでに言うと、コロナが少し落ち着いたら急に弛緩しちゃうような雰囲気もあるけど、コロナと関係なく常に死に直面していることには変わりがない。
 坐禅してるとそう感じます。