正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十七

  岩波文庫124ページ「「風火未散(ふうかみさん)」といふは、仏性を出現せしむるなるべし」
 長沙禅師が「風火未散」と言ったのは、仏性が現れているのだ、ということである。
 この世界の現実、事実あるいは存在すべてが仏性なのだ。仏性そのものが「こういうもの」としてあるのではない。
 道元禅師は、「生きている真実=大宇宙の真理」を徹底して説かれていると私は感じる。仏教とはそういうものだと説かれていると感じる。
 正法眼蔵が妙に哲学書みたいに扱われてしまうのは、道元禅師にとっては全く本意ではないと思う。哲学書ではない。仏教の布教の書なのだ。
 この仏性の巻でも、観念的、抽象的なものを排除されていると思う。
 仕事でも、抽象的な理想を掲げて目標としても良いけれど、それに至るためには徹底的な現実、事実確認が不可欠。理想に拘り事実が正確に見えなくなってはいけないし、事実確認の過程で目標修正も必要になることもある。ただ案外、事実が見えなくなってしまっていることが多いように思う。
 これは現実であり、事実なのだ。これを体全体で素直に受け入れる。これは、私には坐禅無しには難しい、いや不可能だと思っている。