正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十八

 岩波文庫124ページ「仏性なりとやせん、風火なりとやせん」
 二つに切れたみみずが動いているのは、仏性だとするのか、風火だとするのか。
 言葉という抽象的なレベルで「仏性」「風火」を扱ってはいけないと私は思っている。
 言葉のレベルと現実の世界、特に行動の世界はまったく違う。
 澤木興道氏が「饅頭とは何かをいくら言葉で説明してもわからんが、一口食べればすぐにわかる」と言っておられる。西嶋和夫氏も「水泳の本を読ませても泳げるようにはならない。実際水に入って体を動かさなければ泳げるようにはならない」と言っておられる。
 言葉であれこれ言うだけならたやすいこと。しかし、「実際に行動する」ことと「言うだけ」は全く違う。何だか「言うだけ」の人多くないですかね。言うだけなら何とでも言える。しかし現実に行動に移すとなると、色んな立場の人間がいて、既にある権益やら何やらが絡み合って、実現するにはとても苦労する。
 行動せずに、わーわー言うのも自由だけど、それだけじゃ困る。それに言葉だけでわーわー言っていると、言葉はどんどん過激になるのが普通だ。他人を攻撃したり歯止めがきかない。
 私は人間の価値は「何をするか」「今の瞬間何をしているか」で決まると思っている。水泳のオリンピック代表で金メダルを期待されている人が不倫したとか大騒ぎしている。オリンピック選手だろうが何だろうが、不倫なんて極めて私的なことで、そんなもの報道して何になるのかな、と個人的には思う。ならこの件を何故書いたかというと、今の瞬間していることがその人の価値を決めるということで、これは他人に知られようが知られまいが関係ない。ばれなきゃ大丈夫なんじゃない。そのような行動をした時点で価値は決まってしまっている。そのことを言いたいためだ。
 ばれなきゃいい、言い繕えればいい、それをよしとする世の中は間違いだと信じている。
 そして、たとえ今ばれてなくても、やってしまったことは因果の法則で必ず現実の結果として現れる。
 坐禅していて、しみじみそう感じます。