正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十九

 岩波文庫124ページ「仏性と風火と、倶出(ぐしゅつ)すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず」
 仏性と風火とが一緒に現れていると言ってはいけないし、一方が現れたら一方は現れないと言ってはいけない、風火=仏性と言ってはいけない
 西嶋氏は風火を「物質的エネルギー」とされておられる。二つに切れたみみずが両方とも動いているのは物質的なエネルギーが残っているからだ(風火未散)と解釈できるように思う。
 ここは、仏性、風火を観念的・抽象的に扱ってはならないということだと思う。言葉の上で「一緒に現れている」とか「一方が出れば一方は引っ込む」とか「仏性と風火は同じものだ」とか言うことには意味がないということだと思う。現実・事実は厳然として存在していて、それは大宇宙の真理そのものなのだから、言葉の上でいじくり回したところで何にもならない。現実・事実を前にしてどう行動するか、ということしかないと思う。
 そして、前回も書いたけど、人に知られようが知られまいが、行動がその人の価値を決める。表沙汰にならなきゃ大丈夫なんていうことはない。因果の法則でおかしなことをすれば、必ずそれに見合った結果が待っている。河合とかいう政治家夫婦が選挙違反で裁判になっているという。詳しくは知らないがお金配って投票をお願いして回ったということらしい。こんなことをしなきゃ当選できないなら政治家としての実力が無いことをみんなに知らせていることだと思うけど、本人たちはそう思わないんだろうね。裁判では「票の取りまとめをしてくれということだと思った」とか「断れば、もし当選したときにいじわるされると思った」とか次々に証言されてしまっているみたいだ。日頃の行動がよろしくなかったんでしょうね。まさに因果応報、因果の法則に間違いはないということ。
 坐禅して日々の瞬間瞬間を一生懸命行動していきたいと思っております。