正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十三

 岩波文庫124ページ「未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに未散といふか。しかあらざるなり」

 未散と言うのには、どのような理屈、未散ということになったどのようなロジックがあるのだろうか。風火が集まっていたのが、散っていく時期がまだ来ていないことを言うために未散と言うのか。そうではない。

 ここでは、「未散」というと普通に考えるようなことを取り上げて、そうではないと否定されておられる。この後、道元禅師は「風火未散」について仏教としてはどう受け止めるべきかの解説を展開される。

 世の中では「普通はそうだ。普通はそう考える」とよく言われる。しかし「普通」とはなんだろう。多くの人が信じていること、認めていることなのかな。しかし、歴史的に見ても、その時は「正しい」とされてきたことが、しばらく経つと、完全に否定されたりする。天動説とか、第二次大戦中の日本の思想とか。

 あるいは個人が周囲の意見と関係なく「普通は!」と叫んだりしている。

 「普通」というもの考えてみると、厄介なものなのかもしれない。

 重要なのは、大宇宙の真理と現実なのだと私は思っている。

 そう言っても、わたしが毎日平穏に、「正しく」生きている訳じゃない。毎日七転八倒して、もがいています。その私の状況がどういう結果になるのか?大宇宙の真理によって決まる。その結果を受け入れるしかない。今は、正直、しんどい思いで過ごしてます。そういう時期なんでしょう。