正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十五

 岩波文庫125ページ「たとへば一音(いっとん)の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに」
 例えば一つの音のすることが仏法、現実のありのままの世界(現実)を説いている、その時がやってきているということである。法を説くのは一つの音であり、その時が現実が現れている時である。法(森羅万象・現実、大宇宙の真理)は一つの音である、一つの音が法なのであるから。
 一つ一つの音ということは、すべての音と言えると思う。
 風火未散、未散風火といっても、現実の音すべてが現実・森羅万象を現していることを別の言い方で言っているだけだと思う。
 私は、結局のところ、現実をしっかり捉えなさい、そして大宇宙の真理に従って行動しなさい、そのためには坐禅が必要、ということだと思っている。
 学術会議とやらで会員に任命されなかった人たちがいるということで騒ぎになっている。私は学術会議がどういうものか知らないけれど、権力者にとって邪魔な人は任命しないだろうとしか思えない。これまでは、黙って任命してきたのは、「独立性」を重んじていたんじゃなくて、あまり重視してこなかっただけなんじゃないの?と思ってしまう。
 野党が批判しているけど、野党の方がイデオロギーとしては偏っているように見えてしまうけど。
 いずれにせよ、人間はあっち行ったりこっち行ったり、色々するけど、最後は大宇宙の真理に決着する。
 その過程で、あまり酷いことにならないためには、一人一人が毎日の瞬間瞬間を普通に一生懸命行動するしかない。そして普通になるためには坐禅が必要だ。