正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十六

 岩波文庫125ページ「又、仏性は生(しょう)のときのみありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解(しょうもんはくげ)なり」

 仏性は生きているときにだけあって、死のときはないと思っているのは、仏教について勉強が足りず、理解が浅薄であること甚だしいのだ。

 ここで、生死と仏性について説かれているが、間違ってはいけないのは、「たとえ死んだとしても「仏性」は残る」というようなオカルト的、神秘的な考え方をしてはいけないということだと思っている。

 仏性は、現実そのものであり、生きている、死んでいるということも現実であり、従って仏性と生死を分けて、有るとか無いとか論じる意味はない、ということだと思う。

 前にも書いたけど「生も一時の位なり、死も一時の位なり」なのだ。生きている時は一生懸命生きる、死ぬ時は一生懸命死ぬ。人間は必ず死ぬのだから死を迎えるまでは一生懸命生きるしかない。死は免れないのだから、死を迎えた時は一生懸命死ねばいい、と私は思っている。坐禅して、正法眼蔵を読んで、瞬間瞬間行動して、死ぬ。他人から見て私の一生がどう見えるのかなんて関係ない。いつ、どのように死ぬのかなんてわからないのだから瞬間を生きることを積み重ねるしかない。

 自殺してしまう人がいる。その状況、心理はわからない。色々複雑なことが重なりあっているのだろう。他人がとやかく口を挟むことではないと思う。

 ただ、もし自殺を防げるとしたら、私としては、坐禅は役にたつとは思う。

 道元禅師は坐禅を「安楽の法門」と言っておられる。

 坐禅すると、体の歪みが正されていくのは実感できる。それだけでも、かなり違ってくるとは思っている。