正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十七
岩波文庫125ページ「生(しょう)のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり」
生きているときもる仏性が有るとすることもできるし、無いとすることもでき。死のときも仏性が有るとすることもできるし、無いとすることもできる。
この仏性巻の冒頭で、一切衆生=悉有=仏性、つまりすべての存在は仏性である、存在(現実)=仏性とされている。
だから、生きている、死ぬというのは現実そのものであって、仏性の有無を論じる必要などない。有るとか無いとか言葉のレベルであれこれ言っても意味がない。言葉ではどうとでも言える。そういうことだと思う。
問題は、言葉であれこれいじくり回すことではなく、現実の行動、瞬間瞬間の行動だ。
最近身の回りで、ある騒動が起こった。色々な要因があると思うし、色んな人が色々言っていて何が正しいのか、現段階では分からない。ただ、渦中の人たちをみていると、日頃の行動の積重ね、普段の心がけがよろしかったとは言えないだろうと私は思っている。
私は人間の価値は普段の行動の積み重ねの上にしかないと思っている。因果の法則で日頃の行いは絶対にそれに見合った結果をもたらす。
人に知られていようがいまいが、世の中に現れていようがいまいが、行動が結果を出す。そしてその結果は現れた瞬間に過去のものとなり(刹那生滅の道理)、今この瞬間の行動を行わなければならない。