正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十八

 岩波文庫125ページ「風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散未散なるべし」

 (前回のところで、生きる、死ぬということについて、仏性が有るとか無いとか言葉でいじくり回す、抽象的・観念的なことを言うことは意味がないとしている)風火(西嶋氏は「物質的エネルギー」とされている)が散じるとか、まだ散じてないとか論ずるのならば、仏性についても散じるとか散じないと論ずることができるはずである。

 ここも前回同様、仏性を言葉の上だけで、抽象的・観念的に捉えてはいけない、ということだと思う。

 仕事をしていて、時々出くわすのは、本質的な、本来議論しなければならないことを横に置いてしまって、どうでもいい目先のことや、地位のある人の保身やら勘違い(本人は凄いことを自分は言っていると思っているけど)について、抽象的・観念的な議論に時間を浪費するという場面。

 そしてどんどん横道にそれてしまったりする。風火の散未散から仏性の散未散に話が転じても、そもそも言葉のレベルで扱うものではないのに、それをあーだこーだ言うのは無駄。

 しかし、偉い人(地位のある人)が威張ってでかい声で臆面もなくわーわー言うと、中身は変でも通ちゃったりする。

 だから本質を議論するというのは、中々難しいことが多い。本質とは大宇宙の真理と言ってもいいと思う。

 それができるようになるためには、坐禅が必要だ。なんだか私は坐禅原理主義者みたいですね。でも、それが真理・真実だと信じております。