正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百三十九

 岩波文庫125ページ「たとひ散のときも仏性有(ぶっしょうう)なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし」
 (風火)散のときも仏性は有るとも言えるし、無いとも言える。未散のときも有仏性の状態とも無仏性の状態とも言える。
 私は、散・未散と仏性の有無を言葉のレベルで抽象的・観念的につべこべ言う意味はないということだと思っている。
 この後の道元禅師の解説もそう解釈できると思う。
 仏性とは何かの本質が分からず、その周辺であーだこーだ言うのは無駄。
 今、判子がいらないとか、やっぱり必要とか騒いでいるようだけど、適切な権限者が決定するプロセスが確保できるのか、人の意思が反映された行為の証明を確保できるかが問題なのではないかな。それが電子的に行われようが、判子で行われようが、それは本質ではないだろう。どちらにしても、悪用する方法はあるし、よくよく考えてみる必要があると思う。
 ただ、判子業界の利害だとか、実印の制度(印鑑証明とか)既存のものをどうするかもあるし、中々難しいよね。
 コロナで急にクローズアップされた感はあるけど、全国展開、グローバル展開している企業なんかは、すでに印鑑レスになってるんじゃないか。
 印鑑レスのシステムを売り込みたい企業はいい商機だろうし、判子業界はどう生き残るか必死だろう。
 現実の世界で未来永劫続くものなんて無い、無常だ。だから苦しくなるときもあるけど、希望も持てる、ということだと思っている。
 本質をきちんとつかむ、それは大宇宙の真理に繋がること。それなしに、些末なことで騒いだって仕方がない。
 そのためには坐禅が必要だ。