正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十

 岩波文庫125ページ「しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性(しょうふしょう)なるべきと邪執(じゃしゅう)するは、外道(げどう)なり」
 (仏性の有無を頭の中で抽象的・観念的につべこべ言うのは意味がないのに)仏性は、みみずが動いているとかいないとかで存在したりしなかったりするとか、意識するかしないかで神秘的な力が有ったり無かったりするとか、知っているとかいないとかで仏性が有るとか無いとか、そんなくだらないことに執着するのは、仏教ではない。(外道は、仏教以外の教え、考え方)
 何回も繰り返して恐縮だけど、一切衆生=悉有=仏性なのだから、仏性の有無をつべこべ頭の中でこね繰り回すことに意味はない。
 私は、仏教は徹底した現実論であり実在論であると思っている。この点は西嶋和夫氏のおっしゃっている通りと思う。(私の誤解がなければ)
 だから、現実に生きていく上で重要なもの、役にたつのだと思っている。
 高齢者が交通事故を起こし、お二人がなくなられた事件の公判があったという。被告の高齢者は無罪を主張したと言う。人間それぞれ複雑怪奇な状況があるから、無罪の主張を単純にどうこうは言わない。けれど、これは法律で争われるものなのだろうか。当然司法制度の中で処理せざるを得ないのも事実だが、法律の中で違法ではないとか、裁判の戦術で勝ったとかいうことと、大宇宙の真理にかなっているかは異なると私は思っている。
 人間は大宇宙の真理に従って生きるしかない。法律というのは人間が社会を維持するための大枠を決めているに過ぎない。「法的には」何てことを二言目には言う人を私は信用できない。法の中で許容されること=大宇宙の真理ではない。坐禅していれば、普通に身体で受け止められる。