正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十三

 岩波文庫126ページ「向上に道取するとき、作麼生(そもさん)ならんかこれ仏性。還委悉麼(かんいしちま)。三頭八臂(さんとうはっぴ)」
 常に修行を続けているなかで言うとして、一体どういうことであるのか仏性とは。わかっているだろうか。頭が3つで腕が8本、つまり人間が頭の中であーだこーだいじくり回す範囲外のことなのだ。
 仏性は現実の世界の全ての存在であって概念ではない。ましてや神秘的なものなんかでは全くない。
 人間として存在していること=仏性なのだから、仏性が有るとか無いとかつべこべ言う必要など無い。仏性を得るために修行しろとか、お布施がいるとか言ってお金を取ろうというのは、私には詐欺としか思えない。
 修行は必要だが、坐禅して正法眼蔵を読んでいればいいと思っている。日本人は難行苦行が好きだけど、仏教とは関係無いと思う。道元禅師は難行苦行が必要などとは一言も書いておられないと思っている。厳しい条件の中でも坐禅はしなければいけないとは書いておられるけど、無理矢理厳しい条件の中でやれとは書いておられない。夏は涼しく冬は暖かい所で坐禅したらよいと書いておられる。
 滝に打たれたり、山の中を歩き続けたり、やりたい人はやればいいけど、そうしなきゃ仏教が体得できないのでは普通の人は救われないことになってしまう。
 日常生活の中で毎日坐禅して正法眼蔵を読み続ければいいと信じている。そして毎日毎日瞬間瞬間を普通に当たり前に生きていくことが全てだと信じている。そして、このように毎日毎日瞬間瞬間生きていくのは大変なことだと思っている。たまに滝に打たれるなんて、逆に楽なことだ。
 釈尊難行苦行の末に坐禅に辿り着いたと思っている。難行苦行では大宇宙の真理を体得できない、坐禅のみがそれを可能とするとされた。釈尊が意味がなかったという難行苦行を何で敢えてやろうとするのか、私には理解できない。