正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百四十四

 前回までで仏性の巻は終わり。道元禅師は問答や祖師の方たちの言動を取り上げて、色々な角度から仏性を解説されている。
 繰り返しになるけど、仏性は神秘的なものではなく、いわゆる「霊的」なものなんかでもない。
 全ての現実の存在、人間が生きていることそのものが仏性なのだと私は思っている。
 私は毎日瞬間瞬間、怒りがわいたり、悲しみが突き上げてきたり、不安で胸が一杯になったり、後悔にさいなまれたりしている。そりゃ楽しい、嬉しいという瞬間もあるけど。でもそれが現実であるし、それらは事実として受け止めるしかない。
 坐禅して心身がバランスし、因果の法則、刹那生滅の道理の中で、辛うじて生きている、凌いでいる、というのが正直なところ。
 安心とか安寧とか平穏なんて程遠い。というか、そんなものを追い求めたら逆に苦しくてしょうがないと思っている。「こうすれば安心できますよ。幸せになりますよ。成功しますよ」なんて言う人や本があるけど、私には人生とか人間を軽く見ているとしか思えない。
 坐禅して正法眼蔵を読みながら、自分の人生を自分で生きていくしかない。
 このブログの最初のところに書いたけど、正法眼蔵に出会わなかったら死んでいた、と本当に思う。
 正法眼蔵は現実の中でどう生きていけば良いのかを説いている。仏教がそれを可能とすると説いている。すごい書物だと思う。
 ただ、正法眼蔵坐禅した心身、坐禅の経験無しには絶対に理解できない。正法眼蔵は仏教の布教の書であり、坐禅のみが仏教を体得する方法なのだから。