正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その一

 岩波文庫127ページから、心身学道(しんじんがくどう)の巻に入る。仏道、仏教は心と身体が一体となって学ばねばならないということだと思っている。そして、心も身体も大宇宙と一体、大宇宙そのものになっていなければいけない。それは坐禅によって可能になる。

 前置きは以上にして本文「仏道は、不道(ふどう)を擬する不得(ふて)なり、不学を擬するに転遠(てんおん)なり」

 仏道というものは、大宇宙そのもの、現実そのものであるから、仏道ではないあり方はあり得ない。けれど、仏道を学ばないという態度であれば、仏道からどんどん遠ざかってしまう。

 人間は本来大宇宙そのものであって仏道の中にいる。しかし、学ばなければ(坐禅しなければ)仏道から外れていってしまう。

 知識をどんなに持っていようと、勉強の成績がどんなに良かろうと、社会的地位がどんなに高かろうと、どんなに金を稼いでいようと、仏道を学ばなければ仏道から、大宇宙の真理から遠ざかってしまう。

 何だか今の世の中、上っ面の薄っぺらい言動ばかりとも感じるし、金にとりつかれて手段を選ばないようなことがとても目につくと感じる。また、自己顕示欲が異常に強くなっているんじゃないかとも感じる。法律の中に納まっていれば、裁判で認められれば問題はないんだとか、人に知られなければ、ばれなければいいんだとか、いずれにしても、「普通の状態ではない」つまり仏道からかけ離れた状態だと思う。

 このような「普通の状態ではない」状態が「普通」になってしまっているのは恐ろしい。

 ただ、このブログを書いていても、仕事の上でも感じるけれど、「言葉」で伝えられるのものには限界があるし、言葉を受け取る側もこちらがびっくりするような予期しようもないような受け取り方をする人もいて、「言葉」をどう扱っていいか悩んでいるのが正直なところだ。そうかといって、言葉を使わない訳にはいかない。

 だから、坐禅によって心身をバランスさせ「普通の状態」にする必要がある。そのとき初めて仏道を学ぶ、修行することができる。身心学道ということになる。