正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五

 岩波文庫128ページ「心(しん)をもて学するとは、あらゆる諸心をもてするなり。その諸心といふは、質多心(しったしん)・汗栗駄心(かりだしん)・矣栗駄心(いりだしん)等なり」
 心で仏道を学ぶとは、あらゆるすべての心でもって学ぶのである。その心とは、(以下は水野氏の脚注による)質多心(慮知心。日常の知識経験をとり集め時に応じて思い起こさせる心)・汗栗駄心(肉団心・草木心。心臓のように形あるもの)・矣栗駄心(積集精要心(しゃくじゅうしょうようしん)物事の最も大切なところをあつめたもの)などである。
 私は専門の学者ではないし、僧侶でもない。だから、質多心とか色々言われても、その本質としての意味は知らない。心と言っても、色々あるだろうなあ、と思うには思うけど。心を精緻に詳細に分析して考察することも大事なんだろうけど、日常生活を瞬間瞬間生きていくなかで、それが役に立つとは思わない。だから、細かく勉強してないし、しようとも思わない。
 世の中には、色んな言葉を知っているし、資格も色々持っているけど、全然役に立たない人って結構いますよね。仏教の専門用語はよく知ってるけど、仏教・仏道と程遠い生き方してる人多いような気がする。
 坐禅したときの身心の「心」が「諸心」なのだ、それでいいと思っている。と言うかそうとしか言えないと思っている。「こういう心」なんて特定したり出来るとは到底思えない。
 余談だけど、インドの人って、ものすごく詳細に分析したり、場合分けするのが得意だし、好きだと感じる。プログラミングが得意と聞いたことがあるけど、なるほどなと思う。