正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七

 前回の続き。菩提心、発菩提心について、私の思うところを書いてみたい。
 菩提心というのは、大宇宙の真理を知りたい、真実を知りたいという心だと思っている。
 このブログの最初の方で書いたけど、仕事上で私には「絶対に間違っている」としか思えないことがあり、そう主張したが、周囲の強烈な反発を買いとても辛い経験をした。その時、真実とはなんだろう、真実は存在するはずなのに何故こんなことになるのか、というのが正法眼蔵を手に取ったきっかけだった。
 真実を知りたいという気持ちを持った、それが発菩提心なのだと思っている。自分が正しいことを証明したかったのではない。自分は正しいのか、間違っているのか、そもそも正しいとはなんなのか。それが確認したかった。
 そして正法眼蔵を読み坐禅することで、大宇宙の真理は間違いなく存在することが確信できた。
 道元禅師は「菩提心をおこすこと」がすべての始まりだとおっしゃっている。正法眼蔵に「発菩提心」という巻がある。菩提心をおこすことを重要と考えられたからこそ書かれたのだと思う。
 私は切羽詰まって、どう生きたらいいのかという思いに追い込まれて、正法眼蔵を手に取った。
 そこまで追い込まれなくても菩提心をおこす人はいるのかもしれない。けれど、発菩提心というのは案外難しいのではないかなと思う。
 仏教が現代で価値を発揮するためには、菩提心をおこす人が増えないといけない。どうすればいいのか。騙されたと思って、一回坐禅する。それでいいのではないかなと思っている。