正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十一

 岩波文庫128ページ「これらの心(しん)を放下(ほうげ)して学道するあり、拈挙(ねんこ)して学道するあり」

 (前回、発菩提心とか赤心、古仏心などいろいろ示したが)これらの心を手放してしまって、意識せずに仏道を学ぶことがあるし、それらの心を取り上げて、意識して仏道を学ぶこともある。

 私なりには、坐禅しているときはただ坐禅しているので「放下している」し、正法眼蔵を読んでいるときは、色々考えているから「拈挙している」ということだと思っている。

 どちらも必要。片方だけでは成立しない。ただ、坐禅した身心でなければ正法眼蔵は読めない。これも間違いない。

 今の世の中「拈挙」ばかりしているんじゃないか。身心がアンバランスで、頭でっかちで、観念的理念とか主義主張に憑依されて、無駄に大きな声で、感情的に、攻撃的にしゃべる人が多いように思う。

 オリンピック選手の不倫でも、学術会議でも、核禁止条約でも、その本質は何なのかよく分からないまま、現実をしっかり見据えずに、騒いでいるだけに見えてならない。

 人類が生存し続けるには、不大宇宙の真理に従うしかない。それは、坐禅正法眼蔵により体得するしかない。その上で、はじめてまともな議論ができると私は信じている。