正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十三

 岩波文庫128ページ「あるいは金襴衣(きんらんえ)を正伝し、金襴衣を稟受(ひんじゅ)す」

 金襴衣というのは、釈尊摩訶迦葉尊者を法を継いだ者として認めて送った袈裟のことだそうだ。金襴衣の受渡しを通じて仏道が伝わる、学ばれていく。

 形式を軽んずる人もいるが、やはり「形」「作法」というのはそれが歴史を持っていれば合理性を持っていると思う。歌舞伎の所作が感動を与えるのは、「形」の力だと思う。

 一方で、形式に囚われ本質を見失ってしまう、形式主義に陥るということもよくあることだ。

 マナーも形式だろうけど、マナーを守らないのは見苦しいし、醜い。山口瞳氏が書いておられるけど、見苦しいものは悪だと思う。

道に吸殻やゴミを捨てる、その醜さはそういうことをする人間自身の醜さがその行動に現れているのだと信じている。

 形式に囚われる、前例に囚われて新しい価値が生み出せない、社会から淘汰されてしまうことも珍しくない。ただ、形式や前例に囚われないこと自身が目的になってしまっていることもよくある。

 現実をよく見て、その本質を把握して考えなきゃ駄目だと思う。そして行動しなければいけない。大宇宙の真理に従って。

 そのためには坐禅しなければいけません。